BJ(ビューティージャパン)コンテストの日本大会グランプリに輝いた3名をインタビュー取材させていただきました。
今回お話を伺うのは、写真右から2番目に映る田村 有紀(たむら・ゆうき)さん。
伝統工芸の職人で、田村七宝工芸という明治16年創業の七宝焼のゴダイメとして活動。
その一方では、講演会や観光イベントゲスト、東海地区女性職人グループ「凛九(LINK)」や、中部地区技術屋集団プロジェクト「KASANE CHUBU」、シンガーとしても活躍しているといいます。
バイタリティあふれる田村さんは、七宝焼の伝統工芸職人としてBJになぜ参加しようと思ったのか? そしてそこで、何を伝えようとしたのか?
その想いに触れていきたいと思います。
なぜ伝統工芸職人がBJコンテストに出場したのか?
── 七宝焼をご存じない方に、簡単にまずは説明をしていただいてもよろしいでしょうか?
有紀:金属にクリスタルガラスを焼き付ける宝飾工芸品です。最初によく言われるのが「あ、知ってるよ。ろくろ回すやつでしょ?」という反応なのですが、実はろくろは回しません(笑)。
〇〇焼き、という表現を聞くと、有田焼や瀬戸焼、美濃焼き、などの陶器の一種かなと思われるんですけれど、全然ちがって。
それらは「陶芸」というジャンルで、土やセラミックを使い、ろくろを回して作る日用品のカテゴリになります。
一方で七宝焼は、「七宝工芸」という独立したジャンルになるんです。ただここカテゴリの中には七宝焼しかないので、存在がわかりにくいのですが。
ですがこちらは、金属にクリスタルガラスを焼き付け、絵柄には金や銀を使って描くという、宝飾品として発展してきた歴史があります。
昔はお城にある襖(ふすま)の引き手や、花瓶、釘隠しなどの豪華絢爛な装飾をする宝石の扱いでした。ですので工芸で唯一、宝石と同じ物品税がかけられていた時期もあるぐらいなんです。
── 実際に有紀さんは、普段のお仕事としてはどのようなことをされてるのでしょうか?
有紀:基本的には制作です。商品や作品を作ることがお仕事なのですが、ただそれを作って田舎の職場に置いておくだけでは売れませんので、知っていただくために営業や広報活動も行っています。
サイトも自作し、SNSでの発信もします。商品の物撮りもすべて私が担当しています。外注するのも良いのですが、できあがった商品をすぐに撮影して発信につなげる意味では自身で行うとスピーディーなメリットがあります。
その中でもPRには力を入れていて、2015年のスタート以来、3年間でメディアからの取材依頼が100本以上来ました。これには私もちょっとびっくりしました。
── BJコンテストへの参加も広報活動の一環でしょうか?
有紀:実はメディアに出演すると「美人職人」って書いてもらう機会が恐れながら多いんです。
ただ、美人の定義ってなんだろう? わたしの考える美人ってなんだろうという疑問が生まれて。そんなときにBJに出会いました。
そして何よりも、BJのコンセプトにすごく共感したんです。このコンセプトを作った人や、ここに集う人と知り合えたら、優勝するしないに関わらず、私の人生は絶対に良い影響があるし、素敵な人たちと出会えると思ったんです。
結果、本当に素敵な人たちとつながることができましたし、BJのレッスンや講義などもとっても面白くて、なんて素晴らしいんだろう! って思いました。
── 宮尾リョウコのウォーキングのレッスンにも参加してくださっていたと思うのですが、どんな体験ができましたか?
有紀:私あんまりビジュアルに自信がないんです。BJのコンテストに出ておいてなんですけれど…。でも自信がないから出たいっていうのがあるんです。
なんというか、得意なところで出ても勝つだけじゃないですか。
それも素晴らしいんですけれど、苦手を克服した方が自信につながることが多いなと感じてまして。もちろん得意を伸ばした方が早いですし、大事なんですけれど。
── ビジュアルにコンプレックスがあるということですか?
有紀:それほどではありませんが、気になってることは解決策を知りたいと思ってます。急に身長が10cm伸びることは不可能ですが、自分が持ち合わせている手持ちの中で何ができるかという、最大限の見せ方とメンタルの持ち方をリョウコ先生には教えてもらえたなって思っています。
体型は多少変えれますが、ヒールを履いても身長はどうしても限度があるので。
今の私に何ができるのっていう視点を学べたのは本当に勉強になりました。
田村七宝工芸のゴダイメを継ぐキッカケ
── 精力的に活動されている田村有紀さんですが、そもそもゴダイメとして名乗るようになったキッカケは何だったのでしょう?
有紀:そうですね。う~んと、どこから話そうかな…。ちょっと小学校の頃とか、その辺から話しますね。
実は私、小さな時から何でも一番になることが多かったんです。立候補していないのに学級委員になっちゃうタイプというか。足も一番早かったですし、勉強の成績も割と良くて。
やりたいこともいっぱいあったのですが、あまりに田舎すぎて刺激がなかったんです。ひとつの学年で十何人しかいないレベルです。
中学校に入ったら少しは変わるかなって思っていたのですが、ほとんどクライメートが変わることもなく、地域も同じでとても閉鎖的。
夢とかを持ってる人もひとりもいなくて、やりたい事を語ると笑われちゃうような環境でした。
── それはけっこう大変な10代でしたね…。
有紀:私ちょっと天真爛漫に育ちすぎたんですね。
今であれば「夢を盛大に追い求める生き方」も、「夢という夢はないけど日々の暮らしを大切に生きる」「人の夢を応援する」「夢を探しているところ」などいろんな人がいることはわかるのですが。
そうこうしているうちに、途中からちょっとうまく生きられなくなってきて。
ちょうど人生最大のモテ期だったこともあってか、その狭い地域の中で気づいたら孤立してしまっていて。個性的だったのか協調性がなかったのか性格に難ありだったのかわかりませんが(笑)。
人数が少ない地域でそうなってしまうと、もう世界全員が敵みたいな状態で。
ここのコミュニティに私の居場所はもうないんだな…って思うようになりました。結局、中学校の3年間は、ギリギリの精神状態でした。誰とも喋らず、保健室でさぼったり、休み時間も机で寝てたり。
── 大変な十代だった…の騒ぎじゃなくなってきましたね。。
有紀:最終的に私の出した結論が「私の存在自体がダメなんだ」っていうものでした。自分を否定してみても何も変わるわけでもなく、最終的には考えること自体をやめようと思ったんです。
考えるから悲しいし、嫌だなって思うんだなって。
考える能力がなくなれば悲しいなんて思わない、寂しいとか思わない。「脳よ、止まれ!」って、毎日毎日、何時間も願っていました。
── その後、どうなったんですか?
有紀:そしたら、本当に脳が止まったんですよ!
徐々になんですけれど、目が悪くなってきて。耳が聞こえなくなってきて。何より字が書けなくなるのが顕著でした。ひらがなしか書けなくなっちゃって。
今日は、私は、明日は、っていう簡単な漢字すらも書けなくなって、まっすぐにも書けなくなって、さすがにこれはヤバいなって思うようになりました。
そのまま高校生活もそんな感じだったんですけれど、大学受験はどうするのっていう時に、東京の大学に行こうって思ったんです。
両親が「美術大学が楽しかった」って私が小学生の頃から言っていたのをずっと覚えてて、全然勉強もしていないから落ちるかもしれないけど、受けるだけ受けようって。
そこからは精一杯考えて、考えて、分析しながら自身のレベルを上げる方法、受験で受かる方法など研究しました。
そうやって本気を出したら、武蔵野美術大学に合格できたんです。
「脳よ止まれ」と願ったら脳が止まることがわかったので、今度は「脳よ動け!わたしは出来るんだぞ!今日できなくても明日できる!」と念じ続けていました(笑)。
たぶん環境が良かったんですね。両親は絵が上手くて、クリエイティビティが高くて、遊びゴコロがあって。それをずっと見ていたので。
だからかわかりませんが、受験用の絵を急速にマスターしました。(美術大学は絵を描いたり立体を作ったり…、科によって内容変わりますが、実技試験の点数配分が大半をしめるのです)。
そこから少しずつ、七宝焼の伝統工芸職人になる道へと少しずつ近づいていくことになります。
大学生活と、芸能活動と、七宝焼職人と
── 大学入学後、どのような変化がありましたか?
有紀:大学に入ったとたん、やりたいことをやってる人や、夢や目標をもっている人がたくさんいて、急に友達が100人以上できたんです!
今まで散々、「お前は間違ってる」とか「変わってるね」って言われてきたのは何だったんだろうと思うぐらいに私を褒めてくれる人がたくさんできました。
そこからですね、私がいろいろなことに挑戦し始めたのは。
── 具体的にはどのような活動を始めたのですか?
有紀:大学に入ってすぐに、芸能事務所にスカウトされたこともあり、年間で200本とかのライブ活動を歌手としてするようになります。
その間、大学にも行きながら、大学の課題、制作もして、七宝焼の制作や、学費のこともあったのでアルバイトもしていました。
ただ、七宝焼の制作は小学生のことからしていただけで、大学に七宝に歌にと好きなことばかり全力でやって模索している毎日でした。
そんな学生生活を送っていたので、就職活動をしたこともないんです。卒業の時期もCDリリースとかで忙しくしていました。企業に就職することもイメージになくて。
でも一度だけ、ちょっとしたご縁をいただき、会社員生活を送ることになります。
── まだまだ七宝焼職人としての大きな動きはないままですね?
有紀:七宝焼がなくなったらヤダなっていうのはすごく思っていたので、危機感はあったんです。
でもその時点では実際にどうしたらいいかもわからなかったですし、七宝焼しか知らずに跡を継ぐのも、私は違うなって思ってたんです。
私の性格的にも、時代的タイミング的にも。
── それはどういうことですか?
有紀:作品の美しさは大前提ですし、技術力も大前提。そんな中で、昔は職人が良いものを作れば黙っていても売れるみたいな時代背景だったと思うんです。
でも、今は時代が少し違う。今は物や情報が溢れているし、物の価値観は時代とともに変化する。
作れば作るだけ売れるような時代ではなくなり、職人さんも減り、ちょっと前まで200軒近くの窯元さんが小さな町内にあったのですが、今では8軒。どこも跡継ぎがいるという話は聞きません。
そんな状況だったこともあり、もし七宝焼をやるのであれば他を、社会を色々知ってからやりたくて。
何も知らないながらも、「そもそも時代に必要とされず淘汰されるところなのかな?」というところまでを視野に入れて考えていました。
そうやって色々なことを考えて試した上で、改めて七宝焼を客観的に見ると、
「私だからこそできること」
に気づくんです。私だったらまだまだこの職人の世界でできることがあるって。他をやればやるほど気づいていくんです。
── 一見の遠回りが、実は近道だったという感じでしょうか。
有紀:会社では、WEBやグラフィックのディレクションのお仕事のほか、ホテル経営とダンススタジオ経営の会社で秘書業務のようなこともしました。
とはいえ秘書のかたはしっかりしたかたがいて、私はなんでも屋さんのような立ち位置でした。
そこで経営戦略に混ぜてもらったり、撮影ディレクションや資料作りや打ち合わせ、新規事業立ち上げ、さらには広報活動やダンスボーカルグループの管理など、多岐にわたるお仕事を1年という短い時間の中で一気に経験させていただきました。
ミュージカルプロデューサーとして、ディレクションをしたこともあります。とにかく無茶振りだらけでしたが、そのおかげで今があります。
疲労貧血、脱水で救急車で運ばれたこともあり、働き方としてはちょっとやりすぎでしたけど(笑)。色々やらせてもらえて楽しくてやりすぎちゃったんでしょうね。
でもそこで、0から1を作ることをたくさん教えていただきました。ただ用意される仕事をこなすのではなく、仕事や需要を生み出すということを教わりました。
だからこそ、3年で100本のメディア掲載・出演などもできるようになったんだと考えています。
もちろん、メディアに出ることが全てではありませんが。
七宝ジュエリーブランドの立ち上げ
── そしていよいよ、七宝焼の世界へ?
有紀:明治期には“尾張七宝”として一世を風靡(ふうび)した、七宝焼発祥の地、愛知・あま市七宝町で育った私ですが、当時200軒以上あった窯元が今では8軒まで激減し、もう跡継ぎもいなく、消滅までのカウントダウンが始まっています。
私の両親は二人とも七宝焼の作家で、確かな技術で素晴らしい作品を作ってきました。もちろんファンの方も多かったです。今でも新しい作品をたくさん生み出しています。
幼少期からその姿を見ていた私は、七宝の魅力や、職人のかっこよさを一番良く知っています。なので、「誰にも存在を知られることなく消えていく」ことがガマンできないという想いはずっと持っていました。
そこで2015年にいよいよ「七宝ジュエリーブランド TAMURA WHITE」を立ち上げ、本格的に活動を開始することになります。
年間200本で続けていたライブは、年間5本前後に減らしました。
── ジュエリーブランドを立ち上げようと考えた背景は何だったのですか?
有紀:最初の発想は、自分はちっちゃな頃に両親が作った七宝焼の花瓶とかの大きい作品を見て「花瓶は買えないけれど、その花瓶の一部分、例えば葉っぱの装飾だけをポコってくり抜いて付けれたりしたら可愛いだろうな~」っていうのを実現させたんです。
もともと七宝は、歴史的にも日用品ではなく宝飾品なので、いきなり新しいことを始めたわけじゃないんです。
有紀:あと、何よりも持ち運びしやすいのと、プレゼント需要もちょっと狙ってました。ブランド物も飽きちゃったし、でもなんか一点物みたいなのが欲しいっていうことあるじゃないですか。
もうちょっと言うと、メディアの人に取り上げてもらいやすいかなって考えました。明治16年創業の窯元が「新しいブランドを立ち上げた」ってメディアの人も書きやすいだろうなって思ったんです。
当時はそんなにお金もなかったので、広告費をバンバンかけられるわけじゃないので、いかにメディアの方に取り上げてもらえるかを考えていました。
── 七宝焼のアクセサリーに興味がある方へ、何かお伝えしたいことってありますか?
有紀:そうだなぁ…。なんか大切な場面にご一緒できたらいいなぁっていうのはすごい思います。たとえば、気に入ってる服を着ている時って、やっぱりちょっとテンション上がりますよね。
お気に入りの靴だと遠くまで歩いて行けそうだし、髪型が決まると元気が出る。テンション上がりますよね。
そういうのと一緒で、やっぱりなんか、ドキドキしてもらいたいなっていうのがあります。私も両親の作品をみて、ドキドキしながら育ったんです。すごい綺麗だなぁって。
これを買ってくれる人は、購入費用も大変だったりするのに買ってくれて、きっと大切な場面だったり、大切な人にだったり、大切な場所に置いたりしてくれるんだろうなぁって。そういうのをすごく考えてて。
楽しくないことをしたってパフォーマンスが落ちるだけなので、私自身も買ってくださるかた、身につけてくださるかたみんながドキドキしたりワクワクしたり、そういう場面に一緒にいたいなって思います。
── 最後に、これからBJコンテストに挑戦しようと考えている人へ、何かメッセージをお願いします。
有紀:うーん…。とりあえず出たらいいかなと、思う。
結局グランプリを取れるかどうかって、結果は誰にもわかんないですし、タイミングによって選ばれる人も変わると思うんです。
結果的に一番になれたら一番いいけれど、そこが良し悪しの基準ではなくて。
むしろ出ることによって、BJのコンセプトに集まった人たちと一緒の環境に身を置けるっていうのが、ものすごくメリットになると思うんです。
出ることによって気がつけることも多い。
私はここで尊敬できる友達がたくさんできたし、応援したいと言ってくださるかたができたり、講演会のお仕事をいただいたりと新しい出会いがたくさんありました、こうしたご縁って一生モノかと思いますし、幸せなことだと思います。
ぜひチャレンジしてみてくださいね。応援しています!
── 田村有紀さんは、クラウドファンディングによって2017年に伝統工芸品を国内外に通用する、英字幕入りの動画を制作しています。ぜひそちらも合わせてご覧くださいね。
■田村七宝工芸
明治16年創業 伝統工芸品 尾張七宝の窯元。現在四代目 田村丈雅が当主。発祥の地七宝町(現・あま市七宝町)にて代々技術を守り続ける。
■田村七宝工芸 ゴダイメ
田村有紀 ( TAMURA YUUKI )
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